2016リリー感想
リリーのすべて感想ネタバレ含みます。彼・彼女の使い分けをいろいろしていますが、悪意はありませんので悪しからず。
原作を読んだのでゲルタがグレタ表記になってたりしますすいません;;
リリーのすべてを見てきました。
見た後の感動は込み上げてくるよりも後から漣のように寄せては膨らんで押し寄せてくる感じです。
エンドロールで込み上げてくる涙で首元を濡らし、劇場を出て感動で手の震えがとまらず、世界が怖いと思えるほどでした。
期待していた、それ以上の映画で大変満足です。
まさか30分あけて次の回のチケットを買っているとは。
おなかがグーグーなってしまったので軽食を買いましたが、お腹がいっぱいで押し込むようにして2回目を鑑賞しました。
感想を書くのにもどこから書けばいいのかわかりませんが、演技派揃いの俳優が連なっている以上、期待には添えます。
エディの演技はとにかく素晴らしく、アイナーだった頃の瞳はすでに女性らしさを彩りつつもどこか迷っていて不安げそれを隠すように生活していて。リリーが目覚めた時の彼女の目は女性、少女そのものの。大きく輝いてキラキラしている。毎日が新しいことを感じている。
それに相反するようにアイナーの妻グレタを演じるアリシアの瞳の演技もすばらしい。夫がだんだんと女性へ変化するのと相反するように変化していく不安な瞳と彼女を認める瞳、恋した人との別離、支える母性、友情に近い愛情。それぞれの人生を認めた表情はとてもすばらしかったです。
我らがウィショーの役はリリーに声をかける男性ですが、さすがというしかありません。シーンの量的には少ないのですが、彼が画面に入ってきた瞬間に、何かが起きると思わせる。いい意味で不安要素を演じているのです。そして彼の声色と瞳の演技も魅力的。見ていてリリーになったかのようにときめかせてくれるし、そわそわする気持ちをかりたてて血の気がぶわっと沸騰してすーっと冷めてく感じの演技をしてくれます。私は正直いってクラクラしました。
彼が言葉たくみにリリーとの距離を縮めていきます。しかし視線は獲物を狙う狼のよう。「僕はロマンティストなんだ」「おいで」「君も影を好む」と誘って二人きりになり、彼女の頬を包み込みながら「リリー」と3度名前を呼ぶのです。
リリーは動揺して彼から逃れたいと視線を外すのですが、3度目の囁くような甘い声で「リリー」と呼ばれて魔法にかけられて彼からのキスを受けます。
このシーンは本当に素晴らしい。リリーのびっくりしてからキスを受けるために瞳を閉じるエディの演技は少女そのものだし、情熱的なキスをするウィショーもすばらしい。
その後も彼女と逢瀬を重ねるヘンリクの出番は瞬間的ですが、彼女のよき相談役になっていることがわかる演技です。すばらしかった。
と演技について感想を述べたところで考察を交えた感想をストーリーを追って説いていきます。
冒頭はアイナーの育ったヴァイレの景色から。風になびく草や。海の景色。
音楽が流れ始める。
その瞬間、何故か私はもうこの景色の時にはアイナーがいないと感じてしまいました。アイナーもリリーもいない世界の景色だと思ったのです。
そう思ったら何故か現代を彷彿させるようで、1人の人間がいなくなっても風は吹き続けるという感覚、でも世界は大いなる一歩を踏み出すという感覚に囚われました。そして私は今からその物語の目撃者になるのだなと思ったところで物語はスタートします。
アイナーとグレタは瞳と表情で遠くで会話をします。大変微笑ましい夫婦です。
仲が良く、アイナーの仕事は順調。彼は故郷の沼地を何度も描いて評価されています。二人の間の悩みは子供ができないこと。愛し合ってはいるのに子供は授かりません。グレタはひょうきんでアイナーを笑わせて、アイナーは彼女を受け止める理想的な夫婦です。グレタも画家であり、彼女の肖像画はイマイチピンとこないと言われます。そしてアイナーも画商に妻の話をしたことで妻はプライドを傷つけられたと訴えます。グレタはアイナーの妻ではあるが画家としては個人だと訴えているのです。そんな妻にアイナーは雪の色ができたんだ。といい、何回も同じ景色をかいてもよく飽きないわねとグレタがイラつきをあらわにしても、何度かいても飽きないんだといいます。そして生理がきたというグレタに謝るアイナー。画商へ自分のことを話したことの返上でアイナーはグレタのモデルとしてストッキングを履いて、ドレスを体へ当てるというできごとへと踏み出すのです。
彼がストッキングを撫でる仕草、履いて穴をあける。靴をぎゅぎゅと履いてかかとをならす。そこまではドキドキしながらもおふざけでよかった。ドレスをあてて、グレタが裾を直して彼のストッキング越しの足をするりとなでた瞬間。
アイナーは興奮するのです。その興奮は忘れかけてたものを思い出させるような…。おふざけてやっていたことがだんだんとおふざけにならないことって多々ありますがそのドキドキとか不安感がすごいよく描けている映画だと思います。
その後もアイナーの女性への願望は強くなりつつあります。
そしてその変化を自分で抑えようとするのですが、その美しさは外見へと滲み出ていく。
妻はそれを探りながら受け入れていきます。
自分の中のバランスがだんだんと崩れている。そもそもリリーがいたのですがそれを押し込めていたアイナーはリリーの存在が大きくなっていくことに心身のバランスが保てなくなっていきます。
一番わかりやすい表現は絵がかけなくなることです。
絵とは感情です。
想いが言葉にならないので絵で表現する。表現方法の一つです。
それが歌になる場合もあるでしょう。
私の場合ですが、感動を描きたい素晴らしかったと愛情を表現したい時にも絵で表現しますが、どこか鬱々とした負の感情がある時に創作意欲はわきます。
その考えで読み解くと
アイナーは幼少の頃にすでにリリーを目覚めさせていて家族に押し殺すようにいわれ胸の奥にそっとしまいました。その感情が絵を描かせていたのだと思うのです。リリーが沼地の景色をアイナーに見せていました。
沼地の美しい景色=リリーだったと思うのです。
その創作意欲はリリーがアイナーの表面化することによって意欲はリリーを完璧な女性にする方へと移っていく。絵筆はキャンパスではなく、自分の顔に変わり、化粧へと変化する。
アイナーとリリーが交差する中、沼地が見えなくなったのはその理由もあるのかなと思ったのです。過去に抑えたリリーの感情がアイナーの中で沼地として存在していた。
グレタがまな板でニンジンを力強く切る音に耐えられなるシーンはとても演出がよくできていると思います。ナーバスになっている時ほどああいった音は不快ですし、あの音にグレタの感情ものかっているのです。
片やグレタも画家です。彼女は肖像画を描いていて、また肖像画?といわれてしまうほど。その彼女が新しいテーマとしたのが、リリーです。
彼女は言葉にならないリリーへの感情をキャンパスに描きます。いままで外見のみを模写してきたゲルタの絵とは違い、彼女の感情が乗り移った絵画こそ、彼女の作品になったといえるのではないでしょうか。
リリーへの想いは複雑ですが、彼女を魅力的に描いてしまうゲルタの心が惹きつけるのです。愛憎、悲しみ、焦がれそういった言葉にできないアイナーに対する想いを描いた途端、彼女は認められていく。
アイナーの沼の絵も、ゲルタのリリーの絵もどちらも景色や人物画にみえるものの、実は彼らの心の闇や感情の訴えであり人はそういうものに惹かれているのです。
なのでアイナーが絵をかかなくなり、リリーが絵がかけなくなったことは説明がつきます。
でもグレタはリリーに絵を描いて欲しいといいます。今のあなたはどんな絵をかくのか楽しみだわと。
リリーはかけるはずもないのです。リリーに闇はない。常に新しい刺激でいっぱいで目標もあり、やりたいこともあります。不安は完璧になりたい焦燥感だけ。
彼女が絵筆をとるきっかけがそもそもありません。
グレタはアイナーと自分は似ているといいます。
アイナーとキスした時鏡にしているようだったと。グレタはアイナーを自分のことのように愛している。だから絵をかかないアイナーがわからなくなっていく。自分は絵筆をとっているのに…と。
グレタがリリーの存在を認めたのもこの自分のことのように愛しているからこそできたことだと思います。リリーを否定することは愛するアイナーを否定することであり、さらに言えば自分を否定することへとイコールが繋がっていく。
渦中、夫婦の役割を訴え、リリーを否定しかけますが、リリーとアイナー両方失いそうになって彼女は自分の感情を手放し、最終的に生きて欲しいという愛へと形を変えさせるのです。
そして、自分の作品としてリリーを描くことで評価されている。彼女にとってリリーは認めざるをえない存在であった。
グレタはとても自立した女性です。そして価値観にとらわれない自由な女性でもある。作風にもそれがでています。
本質を見極めることができる女性だと思うのです。
アイナーはとてもいい人です。襟の高い服を着てアイナーでいようと努力しようとした人です。妻を一人の人間としてみとめ、個性をみとめ、画家としてみています。お互いに認める間柄として恋以上に愛しているといえるのではないのかなと思います。グレタとは個人間の愛情にかわるスピードのずれがあったのかなと思う感じです。
リリーはキラキラとした繊細な女性です。彼女は少し困ると笑ってごまかす印象がありました。むしろそうするしかなかったのだと思います。でもその笑顔がとても純朴で美しいのです。永遠の少女性をもっている。その美しさが全てを魅了してしまうのだと思います。その少し困ったり動揺したときの笑顔がアイナーにもみてとれます。すべてが美しくみえる世界。今までの感性とは違う状態になった彼女はどんどん世界も魅力的に見えます。
こう考えていくとリリーってとっても薄情だわグレタのこといいように使ってと思うのでしょうがそれもちょっと違うような気がします。
この夫婦はそもそも自立していて此処を認め合うけれど似た者同士の存在であると思うのです。だからあなたは私のことわかるわよねっていう感じ。
で、わからなくなった時にぶつかり合うのでしごくまっとうな夫婦関係だなと思います。グレタの成功と感情も普通で、献身的な愛は素晴らしいほど。
でもグレタがどこまで自分のことをわかってくれるのか不安はあったと思います。周りが気が狂っていると騒ぎ立てる中、信じてくれたのはグレタだけで、そこはもう夫婦というよりソウルメイトに近いです。
理解し、信じるということがどれだけ難しいかこの映画は訴えています。
それが愛する人をこの世から消してもなのかと。
グレタはアイナーとリリー両方愛することができたからできた行動だと思います。彼をドイツ行きの車窓で見送った時のキスが最後のキスだったと彼女の覚悟は決まっていたと思うのです。(原作だともっと現実的に覚悟きめてますけど)
そこまで人を愛せるかといったら別ですけど、グレタはアイナーと私は似ているのといったその一言につきると思います。
リリーはグレタの愛を受け止めて頼りにしていますが、愛の利用とは考えません。そう考える人もいるかもしれませんが、人間は誰しも変わりたいと思う瞬間があります。それには努力と協力は不可欠で自分で耐えられない時に抱きしめてほしい人がいても不思議ではないのです。
自分の身に置き換えるとそれなりに理解できるかなと思うのです。今までの自分が理想の自分とは違って理想に近づくためにもがく苦しみや、そのもがきに一筋の光が差してくる瞬間や、焦燥感。それは誰にでもあることであってリリーだけじゃないし、リリーのような手術を必要することでもなく、変化のための勇気と労力だと思います。そこに家族の力を借りることはケースにもよりますがあることだと思います。
ゲルタはその誰にでも起こる変化と捉えて力を貸していたのだと思うのです。
リリーは最初の手術を終え、グレタとの共同生活を送ります。
リリーは香水を売り、女性の輪の中にはいり、ヘンリクと会って女性の喜びを感じるのです。
グレタは彼女に絵をかいてみないかと自分と違っていくリリーに声をかけますが、リリーは変化を求めているのでそれはできません。そして先述のように浮かびもしません。彼女に絵を描く理由がないのです。
表現したいことは自分自身でしているのです、手つきや百貨店での演技。メイクに洋服。そちらで十分。
リリーの笑顔はまさしく希望に溢れたそのものです。
二度目の手術の時、リリーはついていかないというグレタにお願いをしてついてきてほしいと願います。リリーにも不安はあるのです。
そして彼女が病室に泊まると言ったときに、リリーはホテルへ泊まってといいます。このニュアンスがすごく難しいのですが、不安で頼れるのはグレタだけだけど自分のエゴに付き合わせてるのはわかっているのもあるし、一人で泣きたかったのもあるのでしょう。お互いいたら嘘をついて不安を隠してしまっていたのだと思うのです。
リリーは病室で一人泣きます。私はこの時の涙を懺悔だと思いました。
いろんな見方がありますのでこれと断定できません。
手術への不安、アイナーとの別離(これに関しては1回目の手術で終わっていそうなので強い感情ではないと思いますが、『完璧な女性』になるということはアイナーを殺すことになります。)そしてゲルタの愛したアイナーを殺してしまう自分のエゴとそれを受け入れたゲルタへのごめんなさいの涙だと私は思いました。あの流れからすると、リリーになるためにかなりゲルタの希望は無下にしています。しまいには君の求めていることを叶えられないともいいます。
でも自分の願いは叶えてもらっているのです。
それに対しての涙だと思うのです。
うまくいませんがあの涙が最後の少しのこったアイナーだったと思うのです。
スカーフの演出も素晴らしいですよね。
リリーが購入してきたスカーフをお金きびしいのにと巻きつけたリリーに返す。
それを巻いて2度目の手術へ、ホテルにいくようにこれを巻いて行ってと気遣う。そこでもゲルタは大丈夫よとリリーに返す。
そして最後ゲルタはそれをまいて、リリーの故郷へ行き、風に運ばせる。
スカーフはリリーでもあり、アイナーでもあるよい演出です。
ヘンリクは「本当の女性?」とききます。
本当の女性とはなんなのでしょう。この質問はすごく大きな問いかけだと思います。これはみている観客に問いかける言葉だと思っています。
リリーはさらなる完璧を求めるために、手術を希望します。
完璧な女性になりたくて。ゲルタは止めます。危険だとそして苦しむあなたをみたくないと。
リリーは冒険者になっているのです。まだ見ぬ景色がみたい。
医者は科学の発展のためにこういう冒険者を求めています。
透けて見える医療の進化もこの映画のゾクリとする一面です。そしてそのゾクリとしたものの上に今私たちはたって生活しています。
リリーのような冒険者、勇者の経験の上で願望が叶えられているのです。
リリーの願望を叶えるために変化を進めることになります。
ここの焦燥感はすごくわかるのです。次のステップがみえているのにまだそこにたどり着けない焦燥感。
そしてそれを止めるには弱くなってしまったグレタの存在です。
リリーはもう自立してしまったのです。
そしてグレタもそれを受け入れました。
私が言いたいことは、本当の女性も完璧な女性もいないということです。
そして何者にもなれるということではないでしょうか。
リリーにいえたなら、完璧な女性も本当の女性もいないから、もう少し次のステップにいくのはゆっくりでもいいんじゃないかしら。いろんな景色をもう少しみてみましょうと言いたかったです。
でもリリーの変化へのエネルギーを抑えられる自信はありません。
なぜなら、彼女の覚悟は相当だったと思うのです。莫大なエネルギーの前に抑える力が発揮できないのはゲルタと同じだと考えられます。
映画をみた感想としては、心理表現が絵画を通して上手に描けている点
美しい映像と音楽で夢みるように描かれた人生
魅力的な俳優陣
展開もスピーディーなのに、それをチープと考えさせない演出もすばらしいと思います。
単純に映画に関しては文句の付け所がないほどです。私の好きな映画に入りました。
一般的な考えとしては、自分の望む性と体が一致していない苦しみは想像以上だったということです。
同性愛よりも酷だと感じました。比べてはいけないと思うのですが、ひとくくりでまとめられるものとして引き合いにだすとするなら…。
愛は制度がなければ自由にできると思うのです。同性愛を禁じるのは、決まりごとであって誰が誰を愛そうがそれは自然に生まれてくることですから。リスクなどもあるかもしれませんが、当人たちの問題だと思うのです。そして自ら開ける道もある。周りの理解も含めてですが…。
でも、女性なのに勃起するペニスや胸の膨らみがない体や子供がうめない苦しみというものはまた違った苦しみなのです。生理的な現状は毎朝起こるだろうし、鏡をみれば嫌でも認知せざるを得ない。肉体と精神のずれというのは、最も辛いことだと思います。そして外科手術を伴わなければ叶わない道でもある。
他者の理解と力が必須であると考えるとその辛さといったらと思うのです。
アイナーが全身鏡のところでペニスを股に挟んでる姿や、覗き小屋で女性と窓にうつる自分をシンクロさせて下半身に手がのびるところではっとするところなんて本当にみていてはっとさせられるシーンではないでしょうか。
性のズレだけでなく嗜好だけでなく、体の不調は私たちの身の回りにもあってその不安や不満って誰でもあると思うのです。
それが特別なことでなく、普通になることが大切だと感じました。
アイナーとリリーの望み、グレタの愛情、身体の悩みというのは誰にでもありえることであり、見た方向が違うということです。
それには時代が関わりますし…いろんな問題もあるでしょう。
リリーがやり遂げたことが後世へつながったその功績を称えたいと思います。
そして、グレタの愛は映画最後の一文に尽きると思います。
『彼女は生涯リリーの絵を描き続けた。』
彼女はリリーへの感情をずっと絵という表現で伝えていたのだと思います。
リリーのすべてはリリーの勇気の奇跡とゲルタの愛の形の物語で、それは特別なものでなく、今の時代にありえることではないかなと思うことです。
むしろいまの時代だからこそ受け入れることが必要なのでしょう。
誰にでも変化はあり、それには勇気が必要であり
そして、愛はエゴであり、性別ではなく個人を愛することであると。
追記
最後のシーンでリリーが言うセリフがすごく涙を誘ったのですが、そこについて追記します。
リリーは夢をみたといいます。赤ちゃんをみてリリーというという流れの前のセリフです。ゲルタにお礼を言ってゲルタが返したあとのセリフ。ニュアンスのみになりますが
「あなたの愛に私は値しないわ」という感じのもの。
このセリフに私がふと思い出したのが情愛と友情のセバスチャンの最後のセリフでした。
セバスチャンは愛情を男性に求めて結果的にかなわないまま最後を迎えるのですが、その彼にこういいます
「僕が求めすぎた。そこまでの愛は神しか与えない」
両者とも、別の路線なのですが、なぜか同じもののように感じてしまったわけなんですけど、冷静に考えてみたらぜんぜんセリフちがうじゃんって思ったんです。でもなんで同じような感じたか。
それは両方とも悟って自らの欲から解放された懺悔のようだったということです。
ネタバレしますが、どちらも最期、愛する人へ向けたセリフです。
あなたの愛は私にはもったいなさすぎたのよとリリーはいいます。
僕は君への愛をもとめすぎたんだとセバスチャンはいいます。
リリーは手術の夜に涙で頬をぬらし、私はこれはゲルタへの懺悔と表現しましたが、長い夢をみて目がさめたときにリリーは感謝を告げたい人が目の前にいたという喜びと、自分が本当の自分になれた喜びを感じつつもゲルタへのごめんねが含まれてたように思えます。そして、彼女にその愛を別の人に尽くしてと願ったように。
セバスチャンはめぐりめぐって求めすぎた愛に翻弄されて自分を見失い、病気になって最期を迎えます。思う人が迎えにきて帰ろうといっても、もう帰れません。彼が告げた言葉も思う人への愛の諦めと感謝とごめんねだったのかなと思うと最期のセリフというのは感謝と謝罪ということになりますがそれを思い出してしまってああ…人は最期ありがとうとごめんねをいうのだなあと思ったのでした。
跳躍しすぎてわけわからないですよね。私もなぜこれがシンクロしたのかわかりませんが
最期二人とも満たされたようにお日様の元目を閉じるのも似ていて。
お日様=天へ許しの懺悔だったのかなあなんて思ったのでした。
さらに、追記
追記
オーラが夫婦の子供の名付け親になりたいから生卵飲めってところ。ストッキングを履いたアイナーにオーラが「貴方はリリーよ!」と告げるところとシンクロするんですよね。彼女は名付け親になったんです。
リリーは二人の子供のようだったのかもしれません。二人で作り上げた女の子。それがリリー。